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私の母は、54歳でこの世を去りました。出会いは私が幼稚園に入園する前で、2人目の母でした。祖母に預けられていた私を、入園にあたり父と迎えに来た時が初めてです。私は、2人目の母とは分かりませんでしたが、迎いに来た時にとても嫌がり、大暴れしたのを覚えています。そして、『虐待』が始まるとは、この時は知りもしませんでした。

母の虐待は、表には一切出ないものであった

虐待をする親というのは、自分が『やってはいけない事をしている』という事は分かっているようです。隠す事が異常に上手すぎます。私の場合もそうで、とにかく誰も気づかないのです。目くばせしたって、元気のない素振りを見せたって、誰も気づかないのです。自覚があって隠しているわけですから、用意周到なのです。

いつも自分自身は小綺麗にしている

毎日きちんとお化粧をして、身なりも整え仕事に行く。出会う人たちには挨拶をして会話を交わす。そう、小綺麗にして、愛想がよく毎日仕事と育児をこなしている。という、立派な女性を演じるわけです。誰もそんな人が子供を虐待しているなんて、疑いもしません。一方、私には誰から貰ったのかお下がりばかりで、新しい服など買って貰った記憶はほとんどありません。

嘘が異常に上手い

時に、つじつまが合わない場合があっても巧みに嘘でかわしていきます。それがとても流暢に言うもんですから、誰も気づかないのです。気付いても、まっ、いいか。と収まる様にもっていくのです。誰もが、母の嘘に騙されていました。今思うと、母は嘘を言ったという認識はなく、都度そういう世界が頭にあったのかもしれません。
一度、虐待中に私のギャン泣きで隣の人が見に来てくれたことがありましたが、私がいけない事をして『しつけているところだ』と答えていました。母が言うもんだから、その人もそうですか。と引き下がりました。どんなに悪いことをしたのかと思われていたかもしれません。

異常な習性を1人にしか見せない

そう、それが私です。私にしか見せないのです。1人だけになった時しか狙いません。友達がいたり、外であれば耳打ちをしたりすることもしませんでした。完全に、私が1人の時のみに異常な顔を出すのです。徹底していたので、これはすごい事ですね。計画性があったとしか思えません。私一人になると、ロウソクのろうを手に垂らされ、見えない服の中はつままれたアザだらけでした。たたく・蹴る・引き吊り回すは当たりまえにされていました。


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私の心の移り変わり

そんな私も、母との出会いから心も体も成長していきます。それに伴い、あれこれと考えが浮かび思いが移り変わっていきました。ただただ怖くて怯えていた私は、恨みを募らせ、一時は命の事までかけようとしてしまいました。実際には、もっと細かくなっていきますが、大まかにどのように変化したかをお伝えいたします。

幼稚園~小学校の頃

あまり意味も理解できず、とにかく怒られるからと大人しくしていました。怖かったし、痛かったからです。
小学校の頃になると、なんか変だな!?と気付くようになりました。他の子の親を見たり、テレビの中の親子を見たりしても、うちとは全然違うからです。私の親は本当の親じゃないな!と確信したのは小学校でした。その頃から、母を恨むようになり、祖母の家に行った際は仏壇に向かって、『仕返ししてください』と願ったものでした。今から考えると、大変恐ろしい事ですが、本気で殺してやりやい!死なないかな!?と思い、『死ね!』と何度も心の中で唱えたこともありました。


中学校~高校

自殺を考えるようになったのもこの頃です。遺書に母親の事を書いて、仕返ししてやろうと思っていました。しかし、心配させたくない祖母を思うと、何回も遺書を書いては捨て書いては捨ての繰り返しでした。

また、この頃本当の母親探しも始めました。縁があってとある協力人が現れて、母親探しに協力してくれました。しかし、中学生が探す事ですから、そうは簡単にはいかないだろうと思っていたら、な、なんと直ぐに住んでいる地域が発覚! 私は、迷わずにその地域の高校を受験することにしました。なんとなくそうすればいいと思いついたのです。そして高校に入ってしばらくすると、ある日突然兄が現れたのです。(後から聞いた話、色々と計画を練ってくれていたようです)
母を探していたら兄まで現れて、正直ビックリしました。と同時に嬉しくもありました(^^) そして無事母と再会を果たすことが出来たのです。

高校卒業後

母や兄が現れて嬉しい反面、どうしても2人目の母を許すことが出来なかった私は、早々簡単に来られないだろうと、東京へ上京しました。とにかく離れたかったというのが正直な気持ちです。服飾の専門学校に行く名目でしたが、東京に出られるのであれば、理由は何でもよかったのです。『二度と鹿児島に帰ってくるか‼』と飛び立つ飛行機の中で思ったことを、未だに覚えています。


母の死を迎えて

『ずるい!』 息を引き取る瞬間に思った事です。最期に間に合い、立ち会えたのですが私はこんな風に思ってしまったのです。

母の入院中に信じられない父の行動

母が病気だと発覚する2週間前に、父から『お母さんと離婚しようと思う』と告げられました。もちろん私は大賛成。即座に、これまでの虐待の話をし、早く分かれて欲しいと伝えました。ところが、その2週間後にガンが発覚。父は分かれず、病室では背中をさすり、食べたいというものを用意し献身的に看病していたのです。治療はしていなかったので、入院した時にはすでに最期が近い状態でした。薬で幻覚や幻聴を発する母に、当たり前のように優しく接する父を見て、私には出来ないと思いました。また、この時母には多額の借金があることが判明し、クレジットカードが20枚ほど出てきてしまい、どこまで迷惑をかける人なんだ!と、怒りさえ覚えたものです。

他界し解放されたのに気持ちは晴れなかった

東京に戻り普段通りの生活に戻っていきました。あんなにイヤだった母も亡くなり、スッキリするかと思いきや、なんかモヤモヤした気持ちがずっと続いていたのです。それは、亡くなって仏様になった母をいつまで憎み続けるのか?と格闘があったからです。許したい!けど、されてきたことを思い出すと、どうしても許せない…。それの繰り返しです。どうしても許せなかったんです。本当に苦しかった、辛かったし、痛かったし、怖かった。でも、いつまで続けるの?私は、一生報われない恨みを抱いて生きていくのか?

鹿児島で行われた13回忌を迎えて

13回忌が行われるのは、当然何年も前から分かっていました。だから、この日に向けて心の整理整頓をしました。許せない事、これからなりたい自分。変わってきた心境を正直に受け止めるように、少しずつ少しずつ…。何年もかけてゆっくり整理していきました。そして迎えた当日、心の中で沢山の抑えていた文句を言いました。お経に乗せて、あの時のこれ、あの時のこれといった具合で、心に溜めていたものを吐き出したのです。
そして最後に、『今日で最後。明日からは大丈夫。』と言って終わったのです。
私は13年かかりました。もっとかかる人もいるでしょうし、直ぐに切り替えられる人もいるかもしれません。

最期に、現在はお陰様で母と呼べるようになりましたし、切り離して考えられるようになりました。人それぞれ時間のかかり方も違うと思います。虐待された方でも、分かっていても手を出してしまうお母さんでも、早い段階で話をしてください。ゆっくりで構いません。相手と自分を傷つけ続けるのは止めましょう。

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2021年12月22日
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